碑を建てられた元上官は既に鬼籍に入られ,船越少佐の親族も不明とのことであった。そこでどんな戦闘であったかを調べてみた(彼を顕彰するためウイキペディアにも投稿しています)。

昭和20年5月11日早朝,米第21爆撃機軍団(第58,73,314爆撃隊)は関西地区が晴天との報を得た。そのため作戦任務172号に従ってサイパン・テニアン・グアム基地から合計102機(出撃数は中規模)の戦略爆撃機B-29と護衛機P-51を発進させた。硫黄島上空を経たのち紀伊半島を目指し午前9時過ぎには大阪上空に達した。

空襲を告げるサイレンが野犬の遠吠えのようにあちこちで鳴り響き,晴れた上空6千メートルは飛行機雲を靡かせ朝日に銀翼を輝かせたB-29で埋め尽くされた。3月13日の大阪大空襲3月17日の神戸大空襲を始め関西でも数十回の空襲を受けていた人々は不安げにその行方を見守った。

阪神防衛を担う伊丹飛行場(兵庫県)陸軍56戦隊の
飛行隊長が,船越明陸軍少佐(当時大尉)であった。
当時本隊は被害を受けたため佐伯飛行場(大分県)
に展開しており,船越少佐は留守部隊の隊長として5
月に着任したばかりであった。敵機来襲との報を受け,B-29の高々度までも上昇できる性能を有する4月に配備されたばかりの飛燕(三式二型)に搭乗舞い上がったが飛燕はB-29の高度までも上昇できる能力を有するものの,そのエンジンは不調であり一抹の不安の邀撃であった。当日B-29側は,敵機41機を確認し261回の攻撃を受け概ね撃墜31機と記録(かなりの錯誤を含む)しているが,そのうちの1機が船越少佐の飛燕であった。彼は急上昇の後,京都府南部上空で果敢にB-29の群れに突っ込んだ。しかし衆寡敵せず護衛機からの12ミリ弾を頭部に被け,パラシュートでの
脱出も許可されていたがそれも間に合わず金蔵寺上
空で墜落壮烈な戦死を遂げた。

その後92機のB-29は,神戸灘区にあった川西航空
機甲南製作所への精密爆撃を敢行した。9時53分
から10分の間に高度5000メートルから460トンの爆
弾を投下し同製作所の70%を破壊した。南西にあっ
た住宅なども影響を受け死者1093名負傷者924人
の被害が出たが,米機の損害は3機損傷のみであっ
た。
(散華した船越少佐を顕彰しネット上に残すためこの
撃墜の目撃者を探しています。2ヵ月後直ぐ近くに墜落
した他の飛燕には,ココのような多くの目撃談がありま
す。   メール  をお待ちしています)
B-29による空襲
京都西山の金蔵寺境内に「陸軍少佐 船越明戦死之地」 と刻のある追悼碑がある。

裏面に
「飛行第56戦隊 飛行隊長26歳 佐賀県出身   昭和20年5月11日 阪神大空襲の際 金蔵寺上空において 三式戦闘機飛燕 にて B29編隊群に突入 被弾墜落した」 と記す。

5月11日の空襲では神戸一帯に甚大な被害があった。飛燕(ひえん)は和製メッサーシュミットとも呼ばれスマートな機体であったが液冷エンジンであったため故障も多かったとされる。
飛燕
飛燕